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三次市の歴史

ページID:0003521 更新日:2022年10月17日更新 印刷ページ表示

三次市は中国地方のほぼ中央に位置し、山陰と山陽を結ぶ交通の要衝(ようしょう)という環境の中で、古くから栄えてきました。この地に住む人々は、三次盆地に流れ込むいくつもの川と、中国山地から産出する山砂鉄(やまさてつ)による「たたら製鉄」などの資源を活用しながら、生活してきました。

原始(旧石器時代~古墳時代)

三次市で人々の足跡が見られるのは、2万年前、旧石器時代にさかのぼります。下本谷(しもほんたに)遺跡(西酒屋(にしさけや)町)で発掘された石器は、日本列島最古級と考えられており、日本列島で人が暮らすようになったルーツを解明する手がかりのひとつです。

縄文時代には小高い丘の上に竪穴式(たてあなしき)住居を建て、網による川漁や落とし穴などで食糧を獲って生活していました。

弥生時代には四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が造られはじめ、その出現の地とも考えられています。四隅突出型墳丘墓の分布状況や出土遺物から、中国地方だけでなく、九州とも交流があったことがわかっています。矢谷古墳(やだにこふん)(国史跡/東酒屋(ひがしさけや)町)からはローマに起源を持つガラス玉も出土しており、誰がどのようにここまで運んだのか、研究が進められています。

古墳時代には、平地を望む丘陵上に多くの古墳が造られました。広島県内の古墳の数の3分の1にあたる4000基以上が確認されており、全国的にも古墳が密集する稀(まれ)な地域です。
史跡矢谷古墳

古代(飛鳥時代~平安時代)

地方に仏教が普及し始めた7世紀後半には、寺院が建立されました。寺町廃寺跡(国史跡/向江田(むこうえた)町)は日本最古の仏教説話集(ぶっきょうせつわしゅう)「日本霊異記(にほんりょういき)」に記されている三谷寺(みたにでら)と推定されており、誰がどのような目的で寺院を建てたか、経緯がわかる重要な遺跡です。また、近年の調査では日本最古級の木製灯籠(とうろう)跡が発掘されています。

飛鳥時代には「備後(びんご)国」が成立していたことがわかっており、現在の三次市の範囲は三次郡、三谿(みたに)郡、甲奴(こうぬ)郡にあたります。

奈良時代には律令(りつりょう)という法律により税制度があり、この地域の人々は鉄の鍬(くわ)などを納めていたことが、平城京から見つかった木簡(もっかん)(荷札)などからわかっています。
寺町廃寺跡 復原図(ふるさと会議みよし作成)

中世(鎌倉時代~安土桃山時代)

鎌倉時代には源氏の御家人(ごけにん)が地頭(じとう)として任命され、在地領主になりました。その中で、和智(わち)氏は南天山(なんてんざん)(吉舎町)、江田(えた)氏は旗返山(はたがえしやま)(三若町)を居城とし、三吉(みよし)氏は比叡比山(ひえびやま)(畠敷町)に最初の居城を設け、備後北部で力を持ちました。

応仁の乱の後、安芸(あき)・備後国は大内氏・尼子氏といった守護大名が勢力を伸ばしましたが、大内氏から台頭した毛利氏が尼子氏を退(しりぞ)け、戦国大名として大きく飛躍しました。三次市内には多くの山城(中世城館)が築かれており、勢力が拮抗(きっこう)する境界であったことが窺(うかが)えます。

近世(江戸時代)

関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、安芸・備後国を福島正則(ふくしままさのり)の領国とし、その後、浅野氏が統治することになりました。
初代広島藩主が死去した後、分家独立したのが「三次藩」です。
三次藩は、三次郡と比婆郡の一部を5代88年にわたって治めましたが、跡継ぎがなく断絶してしまい、本藩の広島藩に属しました。
三次藩が断絶した後、寛延2(1794)年の三次を舞台にし、妖怪物語「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が誕生しました。

江戸時代を通じて、石見(いわみ)銀山街道などいくつもの街道が交差する三次市は、宿場町として栄え、町奉行所(まちぶぎょうしょ)も置かれていました。和紙・鉄・牛などの特産物を中心に三次の市は活気にあふれていました。

近・現代(明治~令和)

明治22(1889)年の町村制を施行する前の時期は、100を超える町村がありました。明治・昭和の合併を経て、三次市・君田村・布野村・作木村・吉舎町・三良坂町・三和町・甲奴町の8市町村となり、平成16(2004)年4月1日に合併し現在の三次市が誕生しました。
三次盆地を望む
三次市の文化財の紹介