ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育部 > 社会教育課 > 知波夜比古神社本殿

本文

知波夜比古神社本殿

ページID:0026330 更新日:2024年6月4日更新 印刷ページ表示

知波夜比古神社本殿

概要

神社の由緒や勧請年代については明確ではありませんが、延喜式神名帳の記事からみて、すくなくとも平安時代、寛平・延喜の頃(9世紀~10世紀初め)にはすでに有名な神社があって祭祀されていたことは明らかです。

神社所蔵の古い記録によれば、この神社は昔から杉山城内にあったといわれていますが、おそらく平安末期頃から荘園が増大し、神社は自分の領地を護る必要から領主同様に戦いに備えて武器倉を設け、うまやを建て周囲に堀をめぐらして、次第に城としての形を整えていったものと考えられます。

そして鎌倉幕府の終わり頃になると、幕府の任命した地頭職(じとうしき)の権力が増大し、大地主などの地方の勢力者は各々城やとりでを構えて武力を蓄え、所領を護るため、いっそう城としての形態を整えなければならなくなりました。そこで、神社の境内よりも城内に神社があるというようになったものと考えられます。

このようにして戦国時代の初期を迎え、この頃の神社は神職であた武田甲斐守(たけだかいのかみ)によって護られていました。しかし、武田氏は神社との社領を護るために神社の境内を全く城郭化し、これを「杉山城」と唱え、神職=城主ということになりました。

天文21(1551)年に毛利元就の攻略のために落城し、神社や本殿は兵火のために焼失しました。その後、元就は神の力を恐れ、杉山城とともに焼失したこの神社を再建しようと、遠く三原沖の海底から潮土を運んで本殿の地固めをし、弘治2(1556)年4月工事は竣工し、現在にいたっています。

その後本殿の枌(そぎ)葺を桧皮葺(じわだぶき)に葺替え、千木(ちぎ)を取り替えたのみでその他は昔のままです。そのほかの宝物の一つとして元就自筆の棟札が残っています。

また、知波夜比古神社の建っている境内は、同時に「高杉城跡」として県史跡に指定されています。

 

基本情報

 名称:知波夜比古神社本殿
 よみがな:ちはやひこじんじゃほんでん
 指定:市指定
 種別:重要文化財
 所在地:三次市高杉町
 指定年月日:昭和34年12月1日

関連情報

 高杉城跡