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頼杏坪役宅(運壁居)

ページID:0003519 更新日:2022年10月17日更新 印刷ページ表示

頼杏坪役宅の画像

概要

頼杏坪役宅とは、江戸時代末期の三次町奉行(ぶぎょう)を務めた頼杏坪が役宅として使った建物で、別名『運壁居(うんぺききょ)』といいます。
 三次市三次町の中央部、三次藩時代に藩主浅野家の居館(きょかん)があった場所にあります。市内では数少ない江戸の名残を伝える建物で、昭和12(1937)年5月28日、広島県の史跡に指定されました。

入母屋造りの茅葺平屋建て(132平方メートル)で、建築年代は不詳。歴代町奉行の役宅だったと考えられます。建て方は、武家屋敷とは異なり、大黒柱がなく民家の構造に近い。何度も被災し、修復の跡がみられます。
玄関の位置が、東の妻側にあるのも特徴です。間取りは、表裏に8部屋となっており、東北の隅にカッテがついていました。表の床の間は、質素な構えで古色を帯びた床柱や天井、長押などが170年余り前の暮らしを偲ばせます。
床に隣接した2畳の間は、杏坪の書斎だったといわれ、丸天井が室内を広く見せます。わずかな空間ですが、詩想を練ったり、もの思いにふける杏坪の息遣いが伝わって来ます。

『運壁居』という名の由来

中国の東晋(とうしん)時代(4世紀)、地方役人の陶侃(とうかん)が朝夕100枚の壁(敷瓦)を運んで心を引き締め、力を蓄えたという故事にちなんで杏坪は三次町奉行に就任した際、『運壁』の書を役宅の西壁に掲げて『運壁居』と称し、執務の戒めとした。
この書を揮毫(きごう)した人は伊豆韮山代官(にらやまだいかん)の江川訥斎(とっさい)(太郎左衛門)と「運壁居記」に記されているが、現在は春風の子孫、頼芳樹氏の墨書した扁額(へんがく)が掲げられている。

名代官 頼杏坪

頼杏坪は宝暦6(1756)年7月、父又十郎、母仲子の四男として竹原に生まれる。実名は惟柔(ただなご)、通称は万四郎。長兄が春水、次兄が春風。頼山陽(らいさんよう)は兄春水の子で、杏坪は叔父に当たります。
杏坪は7歳のとき母と死別し、父と兄に育てられました。家は商家で、父は学問好きであった。25歳のとき大坂に出て儒学を学び、30歳で広島藩学問所の儒官に迎えられ、その後広島藩主の子斎賢(なりかた)の教育係となりました。
杏坪が三次・恵蘇郡(えそぐん)の代官になったのは文化10(1813)年10月で、58歳のときでした。その後、三上・奴可郡(ぬかぐん)を加えた備後北部4郡(現在の三次市・庄原市)の代官を歴任、備北各地の村々を歩いて農民の声を聞き、政治に反映させようと努められました。飢饉(ききん)に備えて柿を植えたり、神社に老人を集めて敬老会を催したなどの話はよく知られています。

文政11(1828)年、杏坪は三次町奉行に任ぜられ、4月、家族をあげて三次に転居して来ました。このときすでに杏坪は73歳で、三次に在住したのはわずか2年間でした。
文政12(1829)年2月には京都から甥の頼山陽が運壁居を訪れ、漢詩を残しています。
文政13(1830)閏3月、杏坪は三次奉行を辞して広島へ引き上げました。

基本情報

 名称:頼杏坪役宅
 よみがな:らいきょうへいやくたく
 指定:県指定
 種別:史跡
 所在地:三次市三次町
 指定年月日:昭和12年5月28日

関連情報

広島県の文化財ー頼杏坪役宅(広島県教育委員会)<外部リンク>

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