ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育部 > 社会教育課 > ^南天山城跡

本文

^南天山城跡

ページID:0025793 更新日:2024年5月29日更新 印刷ページ表示

南天山城跡

南天山城跡

和智氏歴代が本拠とした山城です。備南からの街道が宇賀峠を下ったところの前方に、それを制するように立地しています。南から北に延びる山の尾根を利用した南天山城は、北側麓は馬洗川が天然の堀をなし、南側麓は狭い桜谷となっていて、谷を隔てた西初代資実の建立した善逝寺があります。

馬洗川については、初め丸田から吉舎艮神社の前を通って吉舎甲成(こうなり)へと現在より東方をまっすぐ北へ流れていたのを、南天山城の堀として利用するため、和智氏が流路を経変更したという伝説があります。

山頂部から本丸・二の丸・三の丸が並び、それから少し下ったところに桜谷へ出る大手門があり、その北に尾根に沿って数多くの平地からなる郭(曲輪)が連なっていて軍勢の集結場ともなっています。本丸の南側は尾根を深い堀切りで横断して、背後からの攻撃を断っています。

城跡から軒丸瓦と軒平瓦が出土していますが、軒丸瓦の直径が7cmという大きさから考えて、実用的な建物でなく、仏堂のような建物が想定され、木造延命地蔵坐像は、もと南天山城内に安置してあったものとあるので、その地蔵を安置していた仏堂であった可能性もあります。また、懸仏とみられる仏像も出土し、第二次大戦中に山頂部が食料増産のため開墾されたとき​、礎石が多数発見されました。

また、鉄滓や漁労用の網に使う土錘も出土したいます。これは、この城が単なる合戦に備えて臨時に造られた城ではなく、和智氏の本城として常に兵士が詰めていたこと示すものです。​

和智氏

鎌倉幕府成立を機に、平家の地盤であった西国各地へ多くの関東御家人が移ってきました。和智氏もその一人で、武蔵国から広沢氏が備後国三谷(谿)郡和知(智)庄(現三次市和知町)へ移り、現地名をとって和知(智)を称した武士です。

基本情報

名称:南天山城跡

よみがな:なんてんざんじょうあと

指定:市指定

種別:史跡

所在地:三次市吉舎町吉舎

指定年月日:平成9(1997)年11月25日