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尾関山公園100周年記念事業

ページID:0030662 更新日:2024年10月11日更新 印刷ページ表示

尾関山公園100周年記念事業

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紅葉1紅葉2景観1

 

目次

 ■イベント情報

 ■尾関山公園100周年記念事業の概要

 ■尾関山公園の概要

 ■尾関山公園の歴史(江戸~明治時代)

 ■尾関山公園の歴史(明治~現代)

 ■尾関山公園のサクラの植生改善とボランティア

 ■尾関山公園マップ

 ■駐車場のご案内

 ※上記をクリックすると対象項目に移動します

 

イベント情報

 ●尾関山公園フォトコンテスト開催(令和7年4月1日から令和7年9月30日まで)

 

尾関山公園100周年記念事業の概要

尾関山公園は2025年(令和7年)に公園設置100年を迎えます。尾関山公園が100年を迎えることができる感謝の気持ちを表現するとともに、今後の尾関山公園の在り方についてメッセージを発信することを目的に「三次市尾関山公園100周年記念事業実行委員会」を立ち上げ、取り組みを進めています。

実行委員会は、記念事業の趣旨に賛同する市内の各団体と三次市で組織し、記念事業の企画や立案、実施および運営への取り組みを進めています。これまでの企画案には、「サクラの記念植樹」や「SNSを活用したフォトコンテスト」、「写生大会」、「講演会」、さらには「三次町内での忠臣蔵義士行列」などがあり、実行委員会で実施事業を精査しながら取り組んでいく考えです。

 

尾関山公園の概要

三次町に位置する尾関山公園は市民や観光客に広く知られている場所の一つで、その名の通り尾関山にある公園です。春には500本を超えるサクラが咲き誇り、サクラの名所として知られるこの公園では毎年多くの花見客で賑わい、思い思いのひと時を過ごされています。

秋には紅葉が美しく色づき、訪れる人々を魅了しています。公園に入ってすぐの清心池周辺ではモミジが多く植生し、常緑のカシの大木と相まった風景は美しく、人気のスポットになっています。サクラやモミジのほかに、園内にはコバノミツバツツジやアジサイが群生し、また、カシやスギなどの大木もあり、四季折々の美しい風景を楽しむことができる場所として、多くの人々に親しまれています。

 

尾関山公園の歴史(江戸時代~明治時代)

歴史ある尾関山公園の起源は安土桃山時代まで遡ります。尾関山は関ケ原の戦いの後、毛利氏が長州萩へ移され、新たに安芸広島の領主となった福島正則の重臣である尾関正勝が、当時「積山(つみやま)」や「小丸積山(こまるつみやま)」と呼ばれていた三次町の尾関山に重要な防衛拠点として城を構えたことから、尾関正勝の名前に由来して「尾関山」と呼ばれています。尾関山からは三次盆地を見渡すことができ、出雲国からの外敵の侵入に備えるなど重要な役割を果たしました。

大坂夏の陣の後、広島城無断修築の咎を受けて福島氏が改易となり、安芸広島には浅野長晟(ながあきら)が新たな領主として入封しました。1632年(寛永9年)の長晟の死後、息子の浅野長治(ながはる)を藩主として三次藩(広島浅野藩の支藩)が立藩されると、尾関山に下屋敷が築かれ、頂上には天守閣を模した天文台「発蒙閣(はつもうかく)」が置かれました。

1675年(延宝3年)に長治が亡くなった後、城下の人々は尾関山にあった稲荷社を「浅野様」と称え、この社への信仰を深め、後に「浅野神社」として敬崇されるようになりました。浅野神社は修理等を重ね、現在もなお現存し、「三次浅野会」によって神社の護持が行われています。

浅野長治の娘には忠臣蔵で有名な赤穂浅野藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の正室である阿久利姫(あぐりひめ)がおり、尾関山公園近くの鳳源寺には阿久利姫を迎えに来た大石内蔵助(おおいしくらのすけ)お手植えの枝垂桜(しだれざくら)の子孫とされるサクラが今も花を咲かせています。

尾関山公園は、1719年(享保4年)に入山禁止され、御留山(おとめやま)(江戸時代、幕藩領主の管理下にあった保護林または占有林)となり、この状態は明治時代にも続きます。

 

尾関山公園の歴史(明治時代~現代)

尾関山は御留山だったため、直接利用できる「群衆遊覧の場所」ではなかったと思われますが、1895年(明治28年)に「花見時の入山だけでも」と町民からの要望があり、旧三次町(現三次市)が農務省に掛け合い、払い下げされました。このことは、入山はできないものの外から花を愛でることができるサクラ(ヤマザクラ、エドヒガンなどの自生種)が多く生育し、三次の人々が昔から慣行的に尾関山の花を楽しんでいたことを伺わせます。

1911年(明治44年)に公園整備が町議会で決議され、東京の日比谷公園の設計者でもあった吉田弘蔵が設計に関わり、本格的な公園として整備が始まりました。その後も整備は続けられ、ちょうど100年前の1925年(大正14年)に尾関公園(後の尾関山公園)の設置決議が行われました。

公園設置時はサクラの見物に多くの観光客が訪れ、数々の茶屋が立ち並んでいたと記録があります。ツツジ、モミジなども植栽され、尾関山公園は一時、関西一円にその名を知られる存在になりました。

しかし、自然の多い公園として整備に努めてきた尾関山公園でしたが、太平洋戦争中は食料増産のために畑として開墾され、この時に城跡等の遺構も破壊されてしまいます。戦争が終結した後、尾関山公園復興の動きが起こり、先人たちの努力が重ねられ、1956年(昭和31年)には三次市の都市計画公園に指定しています。

 

尾関山公園のサクラの植生改善とボランティア

植樹活動や記念樹となると「サクラ」が候補に挙げられ、毎年相当な本数が全国で植えられています。一方で、「桜切るバカ、梅切らぬバカ」の言葉に代表されるように、サクラを切ることは好ましくないといったイメージが浸透し、手入れをせず疎かになっているサクラが数多くあります。手入れをしないサクラは経年で衰退するしていくものが多く、特に栽培品種である「染井吉野」はその傾向が顕著です。また、「サクラの寿命は50年」といった説が定着すると、サクラは古くなったら枯れるだろうからと新たな植栽を行うことが増え、過密となっているサクラの名所も少なくありません。

歴史ある尾関山公園にはサクラが約500本ほど先人の手によって植栽され、古くからサクラの名所としても広く知られた場所ですが、そのうち約7割近くが「染井吉野」になります。その他にはヤマザクラ、エドヒガン、カスミザクラ等の野生種に加えて、枝垂桜、関山等の八重桜もあります。エドヒガンについては、樹齢100年を超えるものも多数あります。県内でこれだけ多くのエドヒガンが植栽されている場所は数少なく貴重な存在です。   

一方で、前述のように手入れの概念不足や過密な植栽によって、年々サクラ風景の衰退が顕著となっていることは、尾関山公園においても例外ではありませんでした。こういった状況を受け、尾関山公園のサクラの再生を目指すことについて議論する中で、平成29年に「桜の勉強会」が開催されることになりました。勉強会では、「尾関山公園の桜の現状を知ろう!」や「尾関山公園の桜の将来像を考えよう!」といったテーマの元、樹木医による講演をはじめ、参加者による現地調査、尾関山ならではの魅力などを考える場としてグループワークを行いました。そして、この勉強会から立ち上がったのが「尾関山ファンクラブ」です。

サクラの保全活動を行うボランティアは数多くありますが、勉強会を繰り返すことから始まったこと、サクラを植栽していくことが中心ではなく地道な管理作業を主体としているところに会の特徴があります。加えて、専門家(樹木医)と連携することによってサクラとの付き合い方を学べる場となっています。サクラの肥料づくりなどを含めた植栽基盤の改善や枯枝・罹病枝の剪定、過密となった植栽の移植や間伐等光環境の改善など作業は多岐に亘りますが、尾関山ファンクラブの活動によって尾関山公園のサクラは樹勢が回復しつつあります。活動はサクラのみに限らず、市の木として指定される「モミジ」やその他尾関山を構成する植生についても配慮した活動を行っています。

尾関山公園は尾関山ファンクラブの活動だけでなく、これまで多くの地域の方にご協力をいただいています。近隣の三次中学校の生徒によるトイレの清掃や落ち葉拾い、地元企業による清掃、尾関山公園内の散歩と合わせてゴミを拾ってくださる方などと挙げるとキリがありませんが、地域に支えられてきたことで、この100周年を迎えることができています。

 

大好き尾関山 ~尾関山公園サクラ等植生管理計画~

 

尾関山公園マップ

マップ

 

駐車場のご案内

※南側の出入口には駐車場がありませんのでご注意ください

駐車場案内